TRICK

「……おいオリビエ。開けろ」
 ドンドンドン、と扉を叩く。しかし辺りはしんと静まり返っており、ミュラーの行く手を阻むように固く閉じられた扉は先ほどからずっと沈黙を守っている。
 ここはエレボニア帝国帝都、ヘイムダルの中央にあるバルフレイム宮。一日では歩ききれぬほど広い宮殿の奥まったところにひっそりと存在しているのがこの国の皇子であるオリヴァルト……すなわち、オリビエの部屋だ。
 そのオリビエの部屋にほんの5分ほど前にやって来たのが彼の親友兼従者である黒髪の少年、ミュラー・ヴァンダール。
 この春から晴れてトールズ士官学院の生徒となったミュラーだが、今でも時間を見つけてはオリビエの元を訪れるようにしている。
 今日もいつも通りオリビエの部屋に来ていつも通り中に入ろうとしたところ、思わぬ足止めを喰らってしまい先ほどから一歩も動けないでいた。足止めとはつまり、部屋の扉に鍵が掛かって中に入れないのだ。
 オリビエは普段は滅多に鍵を掛けることはしない。『危ないからきちんと施錠しろ』と口酸っぱく言っているのだが、のほほんとした笑顔で『必要ないよ。だってミュラーがボクを守ってくれるでしょ?』とか言ってのけている。
 今日ミュラーがこの時間に来ることはオリビエもわかっているはずだし、オリビエが出掛けるということも聞いていない。それなのに、どうして今日に限って。
 もちろん鍵を掛けるのはいいことだ。少しは防衛意識を身に付けてくれるとミュラーの気苦労も軽くなるというもの。
 しかし問題は、どれだけ扉を叩いても名前を呼んでも鍵を開けてくれないということ。何度もノックをしているが一切の反応が返ってこない。
「オリビエ。いい加減にしろ」
 ミュラーは苛立ちを感じつつ、きっちり着込んだ制服の襟元を崩しながら語尾を荒げさせて扉を叩く。しかしその音はすぐに静寂の中に吸い込まれるように消えてしまい、誰の耳に届くこともない。
「おい、オリビエ!」
 ドン! と、殴りつけるように扉を叩く。それでもやはり固く閉じられた扉の向こうから返事が返ってくることはない。
 痛む右手を軽く擦りながらミュラーは手を下ろす。
 もしかしたら部屋にいないのかもしれない。普通ならそう考えるのが自然だ。しかしミュラーにはある種の予感があった。きっとオリビエはこの部屋にいる、と。それはオリビエと長年付き合ってきた幼なじみとしての勘のようなものだ。
「まったく……」
 ため息を吐きつつポケットに手を入れて真鍮製の鍵を取り出す。洒落た細工の施されたそれはオリビエの部屋のもの。従者として仕えはじめてしばらくした時に、何かあった時のためにとオリビエから渡されたのだ。
「………………」
 鍵を渡された時のことを思い出すと自然と口元が緩む。これは、ミュラーが生まれて始めてオリビエから贈られたモノ。部屋の鍵を渡すということはそれだけミュラーを信頼している証でもあった。
 あの頃のオリビエは本当に愛らしかった。恥ずかしそうに頬を赤くさせ、ちらちらと上目遣いにミュラーを見上げ、意を決したように小さな両手に乗せた鍵を『ハイッ!』と勢いよく突き出してきた姿は、誰が見ても微笑ましく思うだろう。
『いつでも遊びに来てね♪ ……夜這いとかも、ずっとずっと待ってるから……』
 と艶めかしく体をくねらせなければもっと良い思い出になったのだけれど。
 ……まったく、あの阿呆は。懐かしさと同時に頭痛を覚えてミュラーは眉間を押さえる。懐いてくれたのは嬉しいが、どこをどう間違えてあんな阿呆になってしまったのだろうか。
 けれど今は思い出に浸っている場合ではない。ミュラーは無言のまま鍵を睨みつけ、鍵穴に挿す。するりと吸い込まれたそれを回そうとして……動きが止まる。
 いや、違う。回せない。鍵が合わないのだ。
 ミュラーは困惑しながら鍵を抜き、もう一度挿す。軽く回そうとするが、やはり何かが突っかかっているかのように回すことはできず、もちろん扉が開くこともない。
 鍵を間違えたかと思ったがそれは有り得ない。これはオリビエ自身から受け取った物だから間違えようもないし、何度か鍵を開けたことも閉めたこともある。当たり前だがここがオリビエの部屋ではないという間違いもない。
 ミュラーの方は何も間違えていない。……ということは、答えはただ一つ。
 鍵自体が取り替えられた。そういうことだ。
「…………何を考えているんだあの阿呆は……」
 小さく舌打ちをしながら鍵をポケットに戻す。取り替えられたのならもうこの鍵は持っていたところで意味を成さないのだが、怒りに任せて放り投げてしまおうなどという気にはならなかったのは、この鍵がオリビエから初めて贈られたものだからだろう。
 それはさておき問題は目の前の開かずの扉だ。
 鍵を取り替えられた、ということはわかった。しかし当然だが、鍵は一人でに変わるものではない。誰かが『取り替えよう』という意思と行動を示さなければ決して取り替わらない。
 そして部屋の鍵を取り替える、という行為は基本的にその部屋の主の意思で行われる。つまり、オリビエの意思だ。
 しかしミュラーは部屋の鍵を取り替えるということは聞いていない。仮に急に取り替えねばいけないことになったのだとしても、新しい鍵を与えられていないどころかこうして閉め出されてしまっている。
 いくら頭の回転のあまり早くないミュラーでもすぐにわかる。
 つまり、これはオリビエがミュラーを拒絶している……もっと簡単に言ってしまえば、オリビエを怒らせてしまっている、ということだ。
 一体何がオリビエを怒らせてしまったのか。その原因はすでにわかっている。だからこそミュラーは『オリビエは今も部屋にいる』と思っているのだ。
「おい、オリビエ。ここを開けろ」
 ミュラーはもう一度扉を叩く。オリビエが聞いているかはわからないが軽く声を張り上げた。
「だから、俺が悪かったと言っているだろう。次からは来られない時はきちんと連絡を入れるようにするから」
 オリビエが立てこもってしまった原因はミュラーにある。昨日、ミュラーはオリビエのところに来る予定だったのだが、急な用事が入って来られなくなってしまった。言ってしまえばそれだけのことだ。
 オリビエの部屋には通信機もないため連絡手段は限られている。どうオリビエに連絡を入れようかと悩んでいる内に時間が過ぎてしまい、結局連絡を入れることができずに翌日……今日を迎えてしまった。
 怒っているだろうな、とは思っていた。多少の愚痴は聞かされる覚悟で来たが、まさか鍵を取り替えられるほど怒っているとは思っていなかった。
「オリビエ。ちゃんと出てきて俺の話を聞いてくれ」
 とにかく今は謝るしかない。
 けれど遠慮がちに扉を叩いて見せても、相変わらず扉の向こうに人の気配は感じられない。もしかしたら本当にまだ寝ているだけなのかもしれないが、オリビエは気配を消すのが上手い。寝ているのかひっそりとミュラーの言葉を聞いているのか、その判断がつかない。
「………………」
 しばらく待ってみるが、やはり沈黙を守った扉が開かれる気配はない。ミュラーは今度こそ大きなため息をつく。
 先程も言ったが、オリビエを怒らせた原因はすでにわかっている。つまりは、ミュラーが自分の所に来てくれなかったから拗ねてしまったのだ。
「オリビエ。俺が悪いのは認める。けど、お前もわかっているだろう? 俺にも急用ができることだってあるんだ」
 ミュラーの急用……それは、今年の春から通うようになった士官学校絡みのことだ。
 一日の授業を終え、オリビエのところへ行こうとしたところを教官に呼び止められ、その日のうちに終わらせなければいけない作業を頼まれてしまったのだ。
 オリビエのところへ行く、と言っても特に用事があるわけではない。単に様子を見に行こうとしただけだ。そうなると学生であるミュラーが教師の頼みを無碍に断ることもできない。
 一瞬だけ悩んだがすぐに学生としての本分を思い出し、教師の頼みを引き受けることにした。他の生徒たちも一緒に一日かけて作業を終えた結果が、この有様だ。
 ミュラーが軍人となるべく士官学校に通うようになったのは今年の春のこと。
 もちろん学校に通うということは、今までのようにオリビエのところに来ることができる時間が少なくなるということ。もうオリビエも13歳になり昔と比べて一人で行動する機会も増えたとは言え、基本的にミュラーが一緒に着くようにしてやっている。
 学校に通うことも、オリビエよりむしろミュラーの方が否定的で最初は断ろうとしたほどだ。しかしオリビエがそれを許さなかった。
『軍人になるにしろならないにしろ、学校は行かなきゃダメだよ。学ぶことは悪いことじゃないからね』
 そう言い聞かせようとするオリビエと反発しながら何度も何度も話し合ってきた。
 最終的にはミュラーが折れ、『何かあったら必ず連絡を入れること』ということだけは強く言い聞かせ、自分の意思で学校に通うことに決めた。
 入学と同時に始まった、慌ただしいが充実した学校生活。オリビエと会える時間は確かに少なくなったが決して2人の関係が崩れるようなことはなく、順調にやって来られたと思っていた。
 ……けれど、そう思っていたのはもしかしたらミュラーだけなのかもしれない。
「………………」
 ふとそんなことを考えてしまった瞬間、扉を叩いていた手がピタリと止まる。不安に揺れる眼差しで扉を凝視する。
 まさか。オリビエに限ってそんなことがあるはずがない。自分がオリビエのことを決して裏切らないのと同じで、オリビエだってミュラーのことを裏切るはずがないのだから。
 ミュラーは軽く唇を噛みしめる。拳を握り、先ほどより強く扉を叩いた。
「オリビエ……オリビエ! 頼むから……!!」
 名を呼ぶ声に焦りが混じり始める。部屋の中にオリビエがいることは間違いない。けれどもし開けてくれなければ自分はどうすればいいのだろうか。
 黒い感情が自分の中をぐるぐると渦巻きはじめる。有り得ない、と思いつつも完全に否定しきれない自分がいた。……完全にオリビエを信じ切ることのできない自分がいた。
 その時だった。
「っ!」
 ガチャリ、と硬質な音がして僅かにドアノブが動いた。もちろんミュラーが触ったのではない。扉の内側から……内側にいる誰かがノブを回したのだ。
 反射的に扉を叩くのを止める。息も止め、次の挙動を見守る。
「………………」
 ゆっくり、ゆっくりと扉が開かれる。僅かに開かれた隙間にはミュラーの探し求めていたオリビエが立っていた。
 隙間から見える部屋の中は電気を付けていないようで薄暗い。だからこそ余計に、こちらを覗き込むようにしている金色の髪はよく映えていた。
 オリビエがいたこと、扉を開けてもらえたことにほっと安堵するのも束の間、オリビエの紫紺の目がじろりと睨み付けてくる。
「………………」
 オリビエは何も喋らない。扉の隙間から見える瞳は無言でミュラーをねめつけており、明らかにオリビエが怒っていることを示していた。
 責めるような視線に思わず小さく唸ってしまうが、すぐにハッとしてかぶりを振った。いけない。このままオリビエの迫力に呑まれてしまうところだった。ミュラーは虚勢を張るようにオリビエを睨み返す。
「いるのなら返事をしろ。もうすぐ帰るところだったぞ」
 嘘だ。例えここで開けてもらえなかったとしてもいつまでも居座るつもりだった。素直に『心配だった』と言えないのはミュラーの悪いところだ。
「………………」
 ミュラーの性格を誰よりもわかっているはずのオリビエなのに、今日はミュラーをからかうことも甘えることもしない。
 何も言わず、何もせず、ただじいっとねちっこくミュラーを見上げているだけ。
 このまま開いた隙間から手を突っ込んで無理やりに扉を開けてやることもできる。だが、今のオリビエにそれだけは絶対にしてはならない。乱暴なことをすれば完全にへそを曲げて1ヶ月は口を聞いてくれなくなるだろう。
 それなのにオリビエは何も言わない。怒っているのはわかるが、不満も言わなければ何かを求めてくることもない。ミュラーは元来気の長い性格ではないし、言いたいことはハッキリ言ってほしいタイプだ。しかし今のオリビエは何を考えているのかがさっぱりわからない。一体何をしてほしいのか、どうすればいいのかがわからず苛立ちを覚え、無意識の内に口元が引き攣って眉間に皺が寄る。
 その瞬間をオリビエは見逃さなかった。ほんの少し軽く目を見開いたかと思うと、またすぐにじっとりとミュラーを睨みつける。
「……キミ……」
 小さな唇がゆっくりと開かれる。
「キミ、今ボクのことを『面倒くさいヤツだな』って思ったでしょう」
 いつもの可愛らしい鈴の鳴るような声とは全く違う、小さく唸るような声。そして図星を突いた台詞にミュラーは内心ドキリとしつつも口の端に笑みを浮かべさせた。
「……そんなこと、思うわけがないだろう?」
 自分でもわかるほど苦しい言い逃れだった。だって実際にそう思ってしまっていたのだから。
 案の定扉の向こうで、オリビエがこれ見よがしにため息を吐く声が聞こえる。
「……ミュラー、気付いてないでしょう」
 ミュラーを責める目。しかし隙間から見える瞳が微かに震えているのがわかり、ミュラーは息を呑む。
「今のキミ、『あの人達』と同じ目をしてる」
 オリビエは何かに怯えていた。
 何に……など、考えるまでも無い。ミュラーに対して怯えているのだ。
 オリビエの言う『あの人達』が誰のことを指しているのかはすぐにわかった。オリビエがこんな怯えた目をさせるのはいつも決まって、宮廷で主催される晩餐会に顔を出した後のことだから。
「ボクのことを面倒なヤツだって思うのは構わないよ。事実だし。……ただ、嘘だけはつかないで」
 オリビエは子供の頃から『人間嫌い』……いや、『貴族嫌い』だった。
 晩餐会に顔を出せば、誰もが『オリヴァルト皇子』を取り囲み、皇帝陛下に取り繕おうとおべっかを使う。しかしその裏側で、オリヴァルト皇子を褒めた口で『どこの馬ともしれぬ女の腹から生まれた放蕩皇子が』と揶揄するのだ。
 物心が付く前からそんな陰口を聞かされて育てられ、真っ白で純粋な心を持った子供に育つわけがない。特にオリビエは聡い子供だ。自分が異分子であることを誰よりも理解していたため、決して誰にも反論するようなことはせず、何を言われても笑顔で躱す術ばかりを覚えてしまった。
 ……そんなオリビエだったからこそ、一人で晩餐会に出させるのがどうしても嫌だった。
 13歳になった今も、オリビエの貴族嫌いは変わっていない。
 子供の頃のように晩餐会から帰ってきた後に泣くようなことはなくなったが、ミュラーの陰に隠れて怯えた目をさせるのは今も変わらない。
 そして今のオリビエはその時と同じ目をしていた。つまり、ミュラーを彼らと同等であると認識してしまっていた。
「………………」
 正直に言ってしまえばショックだった。
 オリビエに対してではない。自分自身の不甲斐無さにショックを受けていた。
 オリビエにあんな怯えた目をしてほしくないと思っているのに、自分自身がオリビエを怯えさせている。
 けれどミュラーだっていつまでもオリビエばかりに掛かり切りにはなれない。そんなこと、オリビエも理屈ではわかっているのだ。
 理屈ではわかっている。けれど頭が、心がついていけない。今まで一緒にいるのが当たり前だった分、ミュラーのいない時間を寂しく思う。自分が学校に通うよう背中を押したとは言え、全然平気なのかと問われれば首を縦には触れない。……だからと言って、自分ひとりのためだけにミュラーを縛り付けるわけにはいかない……
 そんな不安定な精神状況の中起こったのが昨日の出来事。
 例え会う時間が減っても、ミュラーは『この日はこの時間に会いに来る』と言えば必ず来てくれていた。
 特に強く約束したわけではないし、絶対に来ると言い切ったわけでもない。しかし本当に昨日はたまたまミュラーの方にどうしても外すことのできない用事が入ってしまったからとは言え、ミュラーが自分の言葉を反故にしたのは始めてだったのだ。
 だからだろう。余計にオリビエは固く心を閉ざしてしまった。
「………………」
 自身の情けなさにミュラーは苦虫を噛み潰したような顔をしながら前髪を掻きあげる。
 心を閉ざした、と言っても決してミュラーを拒絶しているというわけではない。
 本当に拒絶するなら部屋ではなく玄関ホールの扉自体を閉め切っていることだろう。いや違う。そんなまだるっこいことはせず、貴族たちに向けるような作った笑顔を浮かべながらミュラーの前に現れ、『もうボクにキミは必要ないよ』と言えばいいだけだ。
 今の状況はむしろミュラーを『待っていた』と言った方が正しいだろう。早く見つけて欲しい、構って欲しいからこそ、こんな中途半端な拒絶を見せているのだ。
 拗ねているだけ。言ってしまえばそれだけのことだが、この状況が一番厄介だとも言えた。
 何せオリビエはあまり我儘を言わない上に、本音を覗かせることのない子供だ。つまり一体どうすれば機嫌を直してもらえるのかがミュラーにもまだよくわからない。
「本当に悪かった。今度、お前の好きな菓子を好きなだけ買ってくるから」
 確か以前オリビエを怒らせてしまった時は、お気に入りの菓子を買ってきたことでなんとか許してもらえた。
 けれどオリビエはミュラーの提案にもぷいと視線を逸らす。
『いつまでも物で釣れるだなんて思わないでよね』と、そう言っているように見えた。
 オリビエは未だに扉を閉めようとはしない。ミュラーにまだ弁解の余地があるということだ。
 しかしこの余地もいつまで続くかはわからない。オリビエに見限られてしまえばそれだけ。……チャンスは恐らく、次が最後だ。
 ミュラーはしばらく唇を真一文引き結んで眉間に皺を寄せて小さく唸りながら考え込む。
 菓子以外でオリビエが機嫌を直してくれそうなことと言えばなんだろう……。今度の休みに好きなところに連れて行ってやる……ダメだ。元々次の休みはオリビエと一緒に帝都に遊びに行く予定だった。オリビエの欲しがっていた本を買ってやる……コレもダメだ。菓子と同じ結果になるだろう。
 そうなると、残されたのは……
「……わかった」
 長い長い思考の後、ミュラーは顔を上げる。オリビエはそっぽを向いたまま、けれど耳だけはしっかりとミュラーの方に向けていた。
 ミュラーはオリビエの顔を見据えたまま右手の人差し指を立てる。ちら、とオリビエの目がミュラーを捕らえる。 
「今日一日はお前の言うことを何でも聞く。それで許してもらえないか?」
 言うことを何でも聞く。
 ミュラーの言葉にオリビエの眉がピクリと持ち上がる。
 好感触だと思いつつも、ミュラーは内心不安でいっぱいだった。
 もしこれすら聞き入れてもらえなかったらミュラーは完全に手駒を失ってしまう。仮に聞き入れてもらえたとしても、オリビエに対して『何でも言うことを聞く』というのはある種の賭けだった。このお気楽皇子は何を言ってくるかまったく読めないからだ。
 けれどもうこれしかミュラーには手段が無い。オリビエが機嫌を直してくれるのなら多少のことは目を瞑ろう。意を決してオリビエを見ると、オリビエは逸らしていた視線をミュラーの方に向けていた。
「……本当?」
「本当だ」
「何でも?」
「何でもだ」
「ボクの言うこと、聞いてくれるの?」
「男に二言はない」
「………………」
 頷きながら言い切ると、オリビエは俯いて少しの間黙り込む。
 ミュラーは固唾を呑んでオリビエの動向を見守っていたが……ふ、と、扉の隙間から見えるオリビエの口元に笑みが浮かべられているのが見えた。
 あの笑みをミュラーは知っている。あれは、オリビエの仕掛けたイタズラにミュラーが引っかかってしまった時、自分の思っていたとおりに事がすすんで面白くて仕方が無いと言いたい時に浮かべられる勝ち誇った笑みだ。
 ミュラーは軽く目を見開く。
 まさか、と呟く間もなく岩のように固く閉ざされていた扉が勢いよく開かれた。
「じゃあさ、今日は一緒に寝よっ☆」
 パアッと花の咲くような満面の笑み。頬をほんのり赤くさせ、守りたくなるような愛らしい声で甘え、両手を広げてミュラーに抱きついてくる。
 ……本当に、先ほどまでのねちっこさはどこに行ったのだ、とツッコミを入れたくなるほどの眩しい笑顔。
「…………オリビエ、お前…………」
 してやられた。ミュラーは苦々しげに唇を噛む。
 そんなミュラーの様子など意に介した素振りすら見せず、オリビエはニコニコと微笑んだまま呆然とするミュラーの隣に立ち、腕にするりと自分の腕を絡ませる。
「だって昔はいつも一緒に寝てくれてたのに、最近は全然泊まってくれないじゃないか」
 確かに子供の頃はそうだった。今よりももっと甘えん坊だったオリビエは、一人じゃ眠れないといつもミュラーを巻き込んでいた。
 しかし忘れてはいけないがオリビエはこの国の皇子でミュラーは単なる従者に過ぎない。本来ならこうしてタメ口を聞くことすら許されることではない。それなのに一緒のベッドで寝るなどおこがましいにも程がある。
 だが、今気にしなければいけないのはそんなことではない。
「……オリビエ。一つだけ聞かせろ」
「なぁに?」
 オリビエは上機嫌に笑っている。本当に先ほどまでの不機嫌さなど最初からなかったように。……そう、最初から、何もなかったかのように。
「お前……まさか、このためだけにここまで大掛かりなことをやってのけたんじゃないだろうな?」
 ミュラーが昨日来られなかったのは本当に偶然だった。本来なら授業を終えたらきちんとオリビエの元を訪ねるはずだった。
 それによくよく考えれば、たった一日来られなかっただけで扉の鍵を取り替えるほどオリビエが怒ってしまうというのもおかしな話だ。
 まさか……と、ほんの少しでも疑ってしまうのは、オリビエの日頃の行いのせいだろうか。
 疑惑に満ちた眼差しを向けられてオリビエは驚いたようにきょとんと目をまん丸くさせる。だが、すぐに目を細めさせてニヤリと笑う。
「まっさか〜。さすがのボクもそこまではやらないよー」
 ニヤニヤと、何かを企んでいそうな底意地の悪い笑み。
 どこまでが嘘でどこからが本音なのかはミュラーにもわからない。
 ……ただ一つだけわかっていることは、『例えミュラーが何をしてもオリビエには敵わない』という、決して覆すことのできない事実だけ。
「じゃあ、まずは一緒にお風呂に入ろっか♪」
「はっ!? ちょ、ちょっと待て!」
 ミュラーに腕を絡ませたままオリビエは廊下を進んでいこうとする。慌ててミュラーが足を踏ん張ってその場に留まろうとすると、オリビエは不思議そうにミュラーを見上げる。
「だって泊まるんだもん。汗臭いままじゃイヤでしょ?」
「し、しかし、俺は泊まる準備は何も……」
 突然泊まってほしいと言われても何も準備をしていない。服は制服のままだし着替えだって持ってきてないし、当然だが家にだって何も連絡していない。
 なんとかこの場をやり過ごそうとするが、オリビエは困惑するミュラーを見て物凄く嬉しそうに口元の笑みを深くさせる。
「大丈夫だよ。もう全部準備してあるから」
 あっけらかんと言ってのける様に、ミュラーは今度こそあんぐりと口を開けてしまう。
「……全部?」
「うん。全部。着替えの制服も寝間着も下着もキミが使ってる枕もぜ〜んぶ♪ あ、もちろんゼクス先生には連絡してあるから。何も心配することはないよ♪」
「………………」
 先ほどミュラーはこう思った。『どこまでが嘘でどこからが本音なのかはわからない』と。
 前言撤回だ。この、僅か13歳の小生意気な策略家は1歩や2歩どころか10歩も100歩も先を見通してしまっている。
 ……敵うはずがない。そもそも、歯向かおうだなんて気を微塵も起こさせない。
「……オリビエ、もう一度聞くぞ」
「ん?」
「お前、わざと部屋の鍵を付け替えたな?」
「もー、ごちゃごちゃ言わないの。男に二言はないんでしょう?」
 心から楽しそうにきゃらきゃらと笑う姿は年相応の子供のもの。
 ……そう、ミュラーはこの笑顔を守りたいと思ったのだ。
 三歳年下の幼なじみで、忠誠を誓った己の主を。
「………………」
 まったく、本当に。このお調子者は。
 ミュラーの心情など知る由もないオリビエはご満悦そうに鼻歌なんかを歌っている。
「背中の流しっことかしようねー♪」
「それだけは勘弁してくれ……」
「だーめ。今日は言うこと聞いてくれるんでしょ?」
「………………」
「楽しみだなー♪ あ、食事も今日は豪勢にしてもらったから楽しみにしててね♪」
「………………」
 ミュラーは心底呆れたようにため息を吐き……そして、小さく笑った。
 この男と共にいる限り、この先の人生何があっても決して退屈することはないだろう。
 悪い意味でも……もちろん、いい意味でも。











TRICK=策略
幼少妄想楽しいです!!(^q^)

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