++ 名前を呼んで ++



 カレイジャス。それは、リベール王国の巡洋艦《アルセイユ》のU番艦として、もうすぐ帝国中にお披露目される予定の高速巡洋艦の名である。

 この巡洋艦の開発の中心に立っていたのは、今では帝国内ではその名を知らぬ者はいないほど著名になりつつある皇帝ユーゲントV世の長子・オリヴァルト皇子その人だ。

『エレボニアの新たなる寵児』と囁かれている風流者の皇子は『放蕩皇子』だと揶揄する者もいるが、人受けの良い性格と端麗な容姿から、かの四大名門アルバレア公爵家の貴公子、ルーファス・アルバレアと並んで社交界での話題を掻っ攫っている。

 カレイジャスのお披露目によりオリヴァルト皇子の名声は更に高まり、誰もが輝かしいエレボニア帝国の未来を夢見るだろう。


 ……今、帝国内は不穏な空気が流れている。

 貴族派と革新派。次々と併合されてゆく周囲の自治州。国内を跋扈するテロリスト達、隣国カルバード共和国とのクロスベル自治州を囲った問題……

 これからも帝国内を纏う空気は淀んだものになってゆくだろう。この先エレボニアがどうなるのかは誰にもわからない。けれど、薄暗闇の中にほんの少しでも希望の光を照らすことができるのならば……。オリヴァルト皇子と共にカレイジャスに乗り込んでいる皇子の付き人、ミュラー・ヴァンダールはそんなことを考えていた。

 今ミュラーがいるのはカレイジャスの中にあるエンジン室だ。この巡洋艦の整備士は腕選りで信用のある者ばかりを揃えているし、機体もエンジンもあのラインフォルト社とツァイス工房が共同で開発したものなので整備自体に問題は無い。単純に、長い年月をかけて完成した巡洋艦を自分の目で隅から隅まで見てみたいと思っただけだ。

 これからミュラーは、己がただ一人の主であるオリヴァルト皇子とこの機体と共に大空を羽ばたく。テスト飛行を兼ねてトールズ士官学校Z組の生達を乗せ、彼らを次の実習地に運んでやるのだ。

 あと30分もすれば緋色の巨体は大きな産声を上げることだろう。《アルセイユ》で帰還したときもそうだったが、本当に我が主ながらあのお調子者はいつも突拍子もないことを思いつくものだ。半ば感心してしまう……と呆れ半分感心半分の気持ちでいる最中、背後から人の気配がした。

 けれどミュラーは振り返らない。その気配の主を知っていたから。

「ミュ〜〜ラ〜〜ァ〜〜」

 案の定、甘ったるい声と共に後ろから抱きつかれる。誰かなど考えるまでも無い。代々皇族に仕える名誉ある家系、帝国でも屈指の武の名門・ヴァンダール家の男で第七機甲師団のエースとも名高いミュラー・ヴァンダールに甘える風に抱きついてくることのできる男など、この世に一人しかいないのだから。

「いちいちしがみつくな、鬱陶しい」

「んもう、ミュラーってば釣れないんだから」

 もちろんそれはミュラーの主であり幼なじみでもあるオリヴァルト皇子本人だ。ミュラーの背中に凭れ掛かるようにしながら頬を摺り寄せ、くんくんと匂いを嗅いで「ミュラー君の匂いだぁ〜」と頬を朱に染めながら至極の笑みを浮かべさせている姿は間違えても帝国民に見せられるものではない。

「おい、少しは慎め」

「平気だよ。誰も来ないし」

 確かに、今この場にいるのはオリヴァルトとミュラーの二人だけだ。ちらりと周囲を見回すが、他に人の気配は感じられない。

「ここ最近二人きりになれる機会って少なかったからね、今の内に堪能させてもらうよ」

 言いながらオリヴァルトは尚も抱きしめる力を強くして頬を摺り寄せてくる。これではまるで猫だ。

「……勝手にしろ」

 呆れたように突き放し、ミュラーはエンジンの方に視線を戻す。

 ……が、どうも意識が背中の方に行ってしまい集中できない。甘えられて悪い気はしない。むしろ主に甘えられる、頼りにされるのは喜ばしいことだ。

 けれどこうもあからさまに甘えられるのは久方振りだ。特にしばらくは『皇子』として聴衆の前に姿を出すことの多いオリヴァルトは、以前のように所構わずリュートを掻き鳴らしたり美しいものの前でわざとらしいほどの感嘆の声をあげるようなことをしないでいる。

 さすがにこのお調子者でも場の空気を読むということはできるのだな、とホッと胸を撫で下ろす日々だったが、一度気を抜けばこの体たらくだ。

 ミュラーが何も言い返してこないことに調子に乗ったのか、オリヴァルトは背負ってほしいような勢いで更に体重を掛けてミュラーに凭れ掛かろうとする。いくら三歳の年の差があるとは言え、成人男性一人の体重で圧し掛かられれば重い。

「もういいだろう」

「んー、ダメ。もう少し」

 それなのに、このいつまでも大きな子供は。ミュラーは呆れつつも視線だけを後ろに向ける。

「オリビエ、いい加減子供ではないのだぞ」

 その時だった。

 ミュラーの言葉にオリヴァルトはピクリと体を震わせる。全体重で凭れ掛かられているミュラーにはすぐにその反応が伝わってくる。

 時間が静止したかのようにオリヴァルトは黙り込む。しかし、抱きつく力だけは先ほどよりも強くさせた。

 付き合いが長いからこそわかる。オリヴァルトがこんな態度を取るのは何かがあった時だ。この傍迷惑な皇子は言葉では示さず態度で示す。しかもミュラーを相手にした時限定で。

「……どうした?」

 放っておいてもいいのだが、何となく声を和らげさせてしまったのは偏にミュラーがオリヴァルトに対しては鬼になりきれないからだろう。普段は怒声を浴びせたり首根っこで有無を言わず連れ帰ったりと厳しく接しているが、どうしても最終的には甘くなってしまう。

 オリヴァルトはミュラーの背に埋めさせていた顔を上げる。そこには、目を細めさせて口元を緩ませ、頬には僅かに朱が差しているミュラーの主の姿があった。

「……もう一度呼んで」

「は?」

「ボクの名前」

 じっとミュラーを見上げるいつになく真剣な眼差し。しかし、ミュラーはオリヴァルトが何を言っているのかわからなかった。

 名前を呼んでとはどういう意味だ。名前などいつも呼んでいるではないか。

 恐らくそう言おうとしたのが顔に出ていたのだろう。オリヴァルトはミュラーが口を開く前にクスリと笑って首を緩く横に振った。

「違うよ。オリビエ、って……そう呼んでほしいんだ」

 うっとりとした瞳でミュラーを見上げ、まるで睦言のような甘える声で、ちょっとだけ困った風に眉根を寄せながら、懇願するように呟く。

「この国で、この名前でボクを呼んでくれるのは、キミだけだから」

 ミュラーにお願いをする時に小首を傾げる癖。少しだけ高くなる声。そして、『この相手は決して自分を裏切ることはない』という自信に満ちている瞳。

 何もかもが子供の頃から変わらない。だからこそ、ミュラーはこの皇子を守りたいと思うのだ。

「キミがボクのことをそう呼んでくれるだけでもっと頑張れる、そんな気がするから。だから」

「オリビエ」

 今度はミュラーがオリヴァルト……いや、オリビエの言葉を遮る番だった。

 意表を突かれたのかオリビエの目が丸くなる。その瞳をミュラーの青い瞳が真摯に射抜く。

「お前は、オリビエだろう?」

 何を当たり前のことを。少しだけ呆れたように聞き返すと、オリビエは驚いたように何度か瞬きをさせてみせる。けれどすぐにほうっと長い息を吐いた。

「……うん、そうだよね。ボクはオリビエ……オリビエ・レンハイム。それ以外の何者でもないよね」

「当たり前だ」

「……うん。本当に、そうだったよね」

 まるで何かの呪縛から解かれたかのような、やっと自分の家へ帰ってきたかのような安堵のため息。もう一度ミュラーの背に頬を寄せた。

「ありがとう……」

「……あぁ」

 もうそれ以上の言葉は必要なかった。

 ただ名前を呼ぶ。それだけでオリビエが自分の居場所を見つけることができるのなら。自分がオリビエの居場所になれるのならば、オリビエの望む限りいつだって名を呼んでやろう。

 それがミュラーの決めた己の進むべき道なのだから。





















閃はミュラーが「オリビエ」と呼ばなかったことだけが不満!!!w

2013.10.30 UP

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