++ 明けぬ夜の闇の中 ++







 目の前に広がるのはとても見慣れた……なのに、見慣れぬ雰囲気に包まれた

帝都の広場。

 集まった群衆はこれから祭でも起こるのかと思わせるほどの数。

 けれどそこに渦巻いている空気は明らかに祭のものとは質が違う。

 悲鳴にも怒号にも近い叫び声があちこちから飛び交っており、時折狂ったような

甲高い笑い声や人目を憚らず泣き出す者までいる始末。

 所構わず石が投げられ、それが近くの民家の窓を割る。時には子供に命中し額

から赤い血を流させ、その泣き声が更に広場を異常な空気で覆う。



 この状況を一言で表すのなら……狂気。



 広場は息苦しいほどの熱気に包まれており、いつもの賑やかで華やかな、気品

すらも漂わせていた雰囲気は微塵もない。

 一体この帝都に何が起こっているというのだ。

 騒ぎの根本を探ろうと辺りに視線を巡らせて……『それ』は、すぐに目に入った。

 広場の中央。そこには普段はないはずの高台が設置されており、周囲を何人も

の武装した軍人達が囲んでいた。

 そしてその高台には一人の男が立っている。

 風に靡く金色の髪。前を真っ直ぐ見つめる紫の瞳。だが、何故か手には縄がか

けられていた。

 その姿を目にした瞬間目を見開く。

 見間違えるはずなどない。遠くからでも一目でわかる。それほどの時間を共にし

てきた。


 ……そう、あの男は己が生涯をかけて守り抜くと誓った人物で…………


 その時、群衆が更にワッと大きく沸き上がった。

 何が起こっているのかを理解する間もなく、同時に高台の男が膝をついたかと

思うと静かに顔を伏せさせた。

 次いで高台を囲んでいた軍人達が手にした銃を構え、銃口が一斉に男の方に

向けられる。

 その光景を目の当たりにした瞬間、己の全身の血が逆流したかのような熱さを

覚える。


 わからない。もう、何もかもがわからない。


 一体何が起こっているというのか。

 何故、軍人達があの男に銃を向けているのか。

 自分は何故…………ここにいるのか。


 ただ一つだけわかっていること。それは、あの男がこれから処刑されようとして

いるということ。

 ……そして自分は、ここからそれを見ていることしかできないということ。


 …………やめろ!


 やっとのことで出てきた叫びは、すぐさま群衆の歓声にかき消されてしまう。

 狂喜、憎悪、悲嘆、好奇……様々な熱を帯びた視線の全てが処刑台へと向けら

れている。

 誰もが声にならぬほどの叫び声をあげながら、これから起こる顛末の一部始終

を見逃すまいと息巻いていた。


 ……狂っている。

 この国は、狂っている。

 これがあの男が命を賭けてまで守ろうとしていたものなのか。

 本当にこの国にはそれほどの価値があるというのか。


 目の前が真っ赤になり、怒りに任せて腰に提げた大剣に手を伸ばす。

 簡単なことだ。この剣を振るい、民衆達を薙ぎ払って高台まで進めばいい。そう

してあの男を救い出せばいいのだ。

 自分にはそれができるほどの力がある。あの男を救うことができるのなら、他の

者などどうなっても構わない。本気でそう思い、剣を握り締め…………


 …………振り上げかけた手が、途中で止まった。


 笑っていた。

 いつの間にか、処刑台の男が微笑みながらじっとこちらを見ていたのだ。

 視線が交わりあい、思わず動きを止めてしまう。すると男はいつもと同じ笑みを

浮かべたままゆっくりと首を横に振った。

 ……たったそれだけの動作に、まるで呪縛をかけられたかのように剣を握り締

めていた手が一瞬にして緩んでしまう。それを見て男は何も言葉にはしなかった

が、もう満足したと言いたそうに静かに目を閉じた。


 それは、女神に許しを請う罪人のように見えて――


 軍人の一人が手を上げる。

 するとあれほどざわめいていた群衆たちが水を打ったように一瞬にして静かに

なる。

 ……それを見計らったかのように、上げられた手が無情にも振り下ろされた。


 静まり返った広場にいくつもの銃声が響き渡る。

 それは風すら止み、小鳥でさえ囀るのをやめたほんの一瞬の出来事。

 高台の男の体が崩れ落ちてゆく様が、やけにスローモーションに見えた。

 本当に時が止まってしまったのではないかと錯覚するほどまでに。


 だが決して錯覚などではなく、確かに時は流れている。

 一瞬にして熱くなっていた体が、今度は冷水を浴びせかけられたように冷えてゆ

く。



 決して目にしてはいけない、あってはならない光景。

 いつも脳裏を掠めてはいるが、奥底へと仕舞いこむようにしていた。



 それなのにどうして。

 どうして、こんなことに。



 処刑が終わった瞬間、群衆達が今までにないほど大きな歓声を上げた。

 そんな中、ただ一人だけ呆然と立ち尽くすことしかできなくて………………




 ……ミュラーはただ、オリビエの名を叫び続けていた。
















 ミュラーは飛び起きた。

 額からにじみ出た汗がこめかみを伝って流れ落ちる。目に強い渇きを感じて何

度も瞬きをさせた。

 心臓が限界を訴えるほどに早鐘を打ち、口の中がからからに渇いている。息を

吸うと咽喉の奥がヒュウッと鳴って思わず咳き込んでしまう。

 どうにかして気持ちを落ち着かせようと何度か深呼吸を繰り返す。そうしている

内に意識がはっきりとしてきて、ミュラーはやっと安堵したように深い息をついた。

「夢……」

 呟いたのは、確認をしておきたかったから。

「夢…………あれは、夢だ」

 もう一度呟いたのは自分に言い聞かせるため。そうしておかないと不安に押し

つぶされてしまいそうだった。

 ここは見慣れた自分の部屋。カーテンを閉め切っているせいで薄暗いが、隙間

から僅かに光が漏れているところを見ると夜が明けかけているようだった。枕元

の時計を手繰り寄せると起きる時間には少し早い。だが、もう一度眠ろうとはとて

もじゃないが思えなかった。

 所詮あれは夢にすぎない。……たとえそれがオリビエが処刑される夢だったとし

ても。例えそれが、最近よく見る夢だったとしても。

 夢はいつも処刑直前の場面から始まる。

 オリビエが高台に上げられ、銃を向けられる。

 ミュラーは到底助けに行くことなどできない場所に立っていて、オリビエがむざむ

ざ殺される様を眺めていることしかできない。

 あれはただの夢だ。もちろんそれはわかっているのだが、あの夢を見せられる

たびに自分の無力さを思い知らされているような気がして無性に腹が立つ。

 オリビエの剣となると誓ったのに、自分はいざという時は何の役にも立つことが

できない。

 それは現実でも同じことだ。

 オリビエが苦しんでいるのがわかっていてもできることは何もない。代わりに痛

みや苦しみを背負ってやりたいがそれも叶わない。

 自分にできることなど何もない。剣を振るうことしか能のない人間が側にいたと

ころでオリビエを支えることなど出来はしないのだ。

 そう、誰かにそう嘲笑われているような気がして…………

「………………くそっ……!」

 やりきれない怒りを感じ、ミュラーは握り締めた拳をベッドに叩きつけた。









 大きな月が夜空を飾る真夜中、ミュラーはオリビエの屋敷の門をくぐる。

 ここ最近、日に一度はオリビエの屋敷を訪れるのがミュラーの日課となってい

た。

 もちろんミュラーにも軍人としての仕事があるので常に一緒にいられるわけでは

ないため屋敷を訪れる時間はバラバラだ。今日は思った以上に仕事に手間取っ

てしまったので訪ねるのがこんなに遅くなってしまった。

 リベールから戻ってきたオリビエはここのところ寝る間も惜しんで働いている。

 毎晩のように招かれる晩餐会にも欠かさず出席しているし、合間に祭事などが

あれば必ず顔を出して己の顔と名を広めるようにしている。

 そこには以前のような『放蕩皇子』と揶揄されていたオリビエはどこにもいない。

おかげで帝都にも『オリヴァルト皇子』の名がじわじわと知れ渡っていた。

 確か今夜は珍しく何も予定が入っていなかったはずだが、そんな貴重な日です

らきっと一日中屋敷に篭って調べごとをしているのだろう。

 そう思いながらオリビエの部屋を訪れる。ノックは一応するけれど、どうせ聞こえ

ていないだろうから返事を待たずに扉を開く。

「オリビエ。遅くなって…………」

 すまない。

 そう続けようとしたミュラーの言葉が途中で途切れてしまう。

 豪奢な赤い絨毯の敷かれたオリビエの部屋の中央。そこには何冊もの本が乱

雑に散らばっており……中心に、ぐったりと倒れるオリビエの姿があったから。


 その姿を目にした瞬間、ミュラーの目の前が一瞬にして真っ暗になる。

 同時に脳裏にフラッシュバックする光景。


 群れる群衆。

 息もできぬほどの異様な熱気。

 ……青い空に、銃声が響き渡る。


「オリビエ!?」

 思わず声をあげながらミュラーは駆け出した。

 途中床に落ちた本を何冊も踏みつけてしまうが、そんなことに気を止める余裕

すらなくオリビエの側にしゃがみ込む。

 肩を抱くように上体を抱き起こさせ、そのまま体を強く揺さぶろうとして……そこ

でミュラーの顔から焦りの表情が消え、安堵したように大きく息をついた。

「……寝ているだけか……」

 見たところ、オリビエは少々顔色が悪く見えるものの呼吸は整っているし、特に

体が熱いとか冷たいなどということはなく、表情も穏やかなものだった。どうやら本

を取ってくるか片付けようとしている最中に立ちくらみを起こして倒れてしまっただ

けらしい。

「まったく、驚かせおって……」

 憎たらしく舌打ちしながら文句を言うものの、ミュラーの心臓はまだ大きく脈打っ

ており、完全に落ち着きを取り戻せていなかった。

 悪態を吐くのも結局はオリビエが心配であるが故だ。

 ミュラーの知る限り、オリビエは最近休みらしい休みを取っていない。

 今日は久しぶりの休みなのだからゆっくりと体を休めておけと言っておいたのだ

が、この様子を見ているとそれが実行された気配はない。

 このままではいつか体のほうが悲鳴をあげてしまうのではないのか。ずっとそん

な嫌な予感を抱いていた矢先にこの有様だ。

「………………」

 まったく本当に、人の気も知らないくせに。

 こうしてミュラーが毎日オリビエの元を訪れているのもオリビエの様子を見るの

が一番の目的だった。

 しかも今回のような出来事はこれが初めてではない。以前も一度、しかも山崩

れを起こした本に埋もれて動けなくなってしまっていた時があった。

『いやいや、たかが本だからって馬鹿にしてはいけないねえ。ミュラーが来てくれ

なかったら窒息死してしまうところだったよ』

 と、本人は他人事のように笑っていたが、さすがのミュラーもこれには激怒した。

 本気で心配していたのに、本人が能天気に笑っていたので当然と言えば当然な

のだが。

 あの時の、反省すらしていなかった主の姿を思い出してもう一度ため息をつきた

くなってしまうが、それは堪えてとりあえずオリビエをベッドまで運んでやることにす

る。

「……ぐっ……」

 とは言っても相手は成人した男一人。

 元々年の差が三歳あるので子供の頃は簡単に抱え上げたりもしたものだが、

いくら普段から体を鍛えていると言っても今はそう簡単にはいかない。

 だが、ここでオリビエを起こすとまた『調べ物の途中だったから』と言って無茶を

するのは目に見えている。

 ミュラーは何とか一人でオリビエを抱えあげると、起こさないようにベッドまで運

んでやる。

 ベッドの上にも本が何冊か散らばっており、この男は寝る寸前まで調べ物をして

いたのかと呆れ返ってしまったが、それは声には出さずにベッドの上に寝かせて

やった。

「……はぁ……」

 一仕事を終えたところで軽く息をつき、ミュラーは改めてオリビエの寝顔を見や

る。死んだように眠っているその姿に僅かに眉根を寄せさせた。

「……………………」

 わかっている。あれはただの夢だと。

 しかし夢だとわかっていても、どれだけ忘れようとしても、まるで蔦が絡みつくよう

にミュラーの記憶の奥底に根付いて離れてくれない。


 オリビエはオズボーン宰相を相手にこのエレボニアに謀反を起こそうとしてい

る。

 国に反旗を翻し、真っ向から宰相に挑もうとしている。

 もうすでに帝都に戻る直前のリベールで宣戦布告は済ませている。今更後に引

くことはできないし、そのつもりもない。

 だが、正直言って宰相は怪物だ。

 帝国国民の圧倒的な支持を集めており、皇帝陛下の信頼も篤い。名も顔もほと

んど知られていないオリビエが立ち向かうにはあまりにも強大すぎる敵だ。

 オリビエ自身も今の自分ではまるで歯が立たない相手だということははっきりと

認めている。今の自分は、細い棒切れを一本持って英雄ごっこを気取っているだ

けのただの子供だと。もちろん、そんな装備で巨大な怪物を本気で倒せると思え

るほどオリビエは馬鹿ではない。

 だからこそこうして身を削って時間を割いて己の地位を固めて諸侯の力を得よう

としているのだが、そうしたとしても宰相に対抗できるほどの力を得られるかどう

かはわからない。まさに雲を掴むような毎日だ。


 ……そんな毎日を送っているからだろうか。あんな夢を見てしまうのは。


 あの夢はオリビエが宰相に敗北した際の末路だ。

 敗北するということは、例え正しいことを行っていたとしても負けた方が『悪』だと

みなされるということ。

 国家に弓引く者は例え皇族であろうと極刑に処される。それがエレボニアという

国。

 オリビエが敗北した先に待ち受けているものは……間違いなく、『死』だけであろ

う。

 まるで見せしめであるかのように、民衆の前でその身を撃ちぬかれるのだ。

 そして今のオリビエはその道を辿る可能性が最も高い。

 オリビエが何かをすればするほど処刑台への道が近づいているような気がし

て、ミュラーは常に胸が締め付けられるような思いでいた。


 本当はオリビエを止めたい。

 例え国がどうなろうと構わない。ミュラーはオリビエに生きてさえいてくれればい

いのだから。

 それなのにこの男はどうして自ら戦火に飛び込むような真似をする。

 どうして、自分で自分の首を絞めるような真似をするのだ。


 オリビエを守りたい。

 だが、今の自分では守ることができない。


「……………………」

 無意識の内に身を屈めさせ、手を伸ばす。

 ミュラーの指がオリビエの額に触れ、頬に触れ……ゆっくりと下に移動してゆく。

 たどり着いた先は白く細い首筋。そこに無骨な手が添えられる。



 このままオリビエに反逆者の汚名を着せさせるくらいなら。


 衆目に晒されて処刑させられるくらいなら。




 それならばいっそ、この手で。





「……………………」

 オリビエの首にかけた手の力がほんの少しだけ強められる。

 それは幼子の手を握るように優しく。だが、その手を決して離さないと言うように

強く。

 指先が柔らかな肌に食い込む感触が伝わり、どくどくと全身の血管が脈打つ。

一切の音が遮断されたかのような無音の世界の中、体がじわじわと熱くなるのが

わかった。

 思わず息を止め、瞬きをすることすら忘れ、体重をかけて更に腕に力を込め

る。

 身を乗り出すとオリビエの上に影を作り、ベッドがギシリと鳴って僅かに沈み込

む。

 ひやりと冷たいオリビエの首が、握り締めた部分だけ熱を帯びはじめる。ミュ

ラーの額を流れ、顎を伝った汗がオリビエの頬に落ちた。

「…………ぅ…………」

 その時、オリビエの口から小さな呻き声が漏れた。

 ほんの少しだけ眉根が苦しげに寄せられて、軽く身を捩らせる。

 先ほどまでの穏やかな寝顔が苦痛に歪む瞬間。それを目の当たりにし、ミュ

ラーは一気に我に返った。

「っ!!」

 弾かれたようにオリビエの首を絞めていた手を離し、数歩後ずさって距離を取

る。

 まるで信じられないものを見たかのように大きく目を見開いたまま、肺に溜まっ

ていた空気を全て吐き出すように長い長い息をついた。

 それでもしばらく早鐘のように心臓が鳴っており、胸元を鷲掴みながら慌しく息

をして全身に酸素を送り込んだ。


 俺は一体何をしているのだ?


 思わずオリビエの首を絞めていた両手を見る。

 毎日剣を振るっているせいか皮が厚くなり、節くれ立っている無骨な手。その指

は小刻みに震えて上手く握り締めることができない。

 もしあのまま我に返ることができなければ、本当に取り返しの付かないことに

なっていたかもしれない。

 オリビエがいなくなる。

 それは単なる比喩表現でも叔父がしてくれた例え話でもなく、本当の意味で『い

なくなっていた』かもしれないのだ。

「………………」

 今更ながらに背筋が凍りつくほどの恐怖が一気にミュラーを襲う。


 ミュラーはオリビエを守る立場にある。

 幼い頃からの長い時間を共に過ごし、オリビエを唯一人の主だと決め、彼の剣

として生きてゆくと誓った。

 その想いは今も昔も変わることはない。

 それなのに何故あのような行動に出てしまったのか。そう考えようとして……

だが、すぐに視線を床に落とす。


 ……答えなど考えなくてもわかりきっていた。

 それは常日頃からミュラーが自分自身に問いかけていたことだから。


 オリビエを守りたい。

 だからこそ思うのだ。

 ……こうしてやるのが一番なのではないか、と。


 今のオリビエでは宰相に勝つことはできない。

 それなのに、あえて修羅の道を歩ませるような真似をさせたくなかった。

 誰の目から見ても明らかな負け戦に挑ませるくらいなら、せめて己の手でその

生を終わらせてやるのが従者として最後の務めなのではないのか。

 何度も何度も己に問いかけるが答えなど出るはずもなく、それ以上にオリビエを

死なせたくないと思っている自分がせめぎあっているのもわかっていた。

 オリビエとは子供の頃から共に過ごしてきたのだ。

 互いの良いところも悪いところも、他の誰よりも知っているし知られている自信

がある。

 オリビエが笑っているときも泣いているときも怒っているときも常に隣に立って全

ての感情を共有してきた。オリビエから絶大の信頼を寄せられていることもわかっ

ている。

 その命を自分の手で終わらせることなど、絶対にできるはずもない。


「…………疲れているな、俺も……」

 天井を仰いで小さく呟く。

 額に手をやるとそこが酷く汗ばんでいる。それなのにオリビエの首にかけた指先

は驚くほどに冷え切っていて、ミュラーは軽くかぶりを振った。

 そしてもう一度オリビエの寝顔を見下ろそうとして……軽く目を見開く。

 反射的に心臓が大きく脈を打つ。だが、みっともなく取り乱すような真似はせ

ず、努めて平静を装って口を開いた。

「……いつから起きていた?」

 普段より低い声を発するミュラーの視線の先には……ゆったりとベッドの上に

寝転がったまま、じっとミュラーを見上げるオリビエの姿があった。

 本当に一体いつから起きていたというのだろうか。オリビエはミュラーの問いか

けには答えずに、ただにこりといつもの笑みを刷く。

 全てを知り尽くしたようなその笑顔が今は胸に突き刺さる。どうせなら問い詰め

るなり何なりしてくれた方がどれだけマシだっただろう。オリビエのあの笑みから

真意を読み取ることなどできるはずもない。

 そんな心の呟きが思わず顔に出てしまっていたのか、オリビエは僅かに笑みを

深くさせた。

「……キミになら殺されてもよかったんだけど」

 オリビエには似合わない弱々しい笑み。だが、そのか細い言葉はきっと彼の本

心なのだろう。

 オリビエの言葉は他の何よりも今のミュラーの体に重く冷たく圧し掛かる。

 ミュラーには自分を裁く権利がある。オリビエはいつもそう言っていた。今まで言

葉にはできぬほどの迷惑をかけ、同時に感謝してもしきれないほど支えられてき

たからだ。

 ミュラーがいなければ今の自分はいないと断言できる。だからこそ、もしミュラー

に殺されるようなことになってもオリビエは笑顔でそれを受け入れるだろう。

 きっといつかその瞬間が来る。まるで己の末路を見てきたような物言いに、ミュ

ラーは軽く唇を噛んだ。

「……馬鹿なことを言うな」

 けれど、やっとこのことで出てきた言葉にはいつもの力がない。

 自分の発言が親友を追い詰めてしまっているということにオリビエは勿論気づい

ている。だからこそ困ったように笑い、静かに続ける。

「心外だな、本気だよ」

「なら尚更馬鹿者だ」

 今度は先ほどよりも強く言い返すことができた。だが、それでもオリビエが笑み

を崩すことはない。

 オリビエの笑顔が自分を責めている。

 決してそんなことはないとわかりつつも、ミュラーは罪悪感からかオリビエの顔を

正面から見ることができずに思わず目を逸らしてしまう。

「……馬鹿を相手にしている暇はない。俺も今日はもう疲れたから、そろそろ帰る

ぞ」

 今日はこれ以上オリビエの顔を見ることが出来ない。

 逃げるように背を向けて部屋を出て行こうとする。

 だが、

「ミュラー」

 呼び止められた声に反射的に足が止まる。

 振り向かなくてはいけない。だが、振り向けない。自分が一体どんな顔をしてい

るのか、オリビエに何を言えばいいのかがどうしてもわからなかった。

 何よりも今の情けない姿だけはオリビエの前に晒すわけにはいかない。

 それはミュラーに残されたヴァンダールの人間として……オリヴァルト皇子の従

者としての最後の意地。

 そんなミュラーの心情をどこまで察しているのだろう。こちらを振り返ろうとしない

友の背を眺めながら、オリビエはゆっくりと口を開く。

「おやすみ。……また明日」

 それは何てことのない、いつも通りの別れの挨拶。

 だが、今日のオリビエは一体どんな気持ちでその言葉を呟いたのだろうか。

 ほんの一瞬でもミュラーはオリビエを殺そうとした。

 それなのにどうしてこの男はミュラーを咎めようとも責めようともせず、こんなに

もいつもと変わらずにいられるのだ。

 また明日。と、オリビエは言った。

 自分を殺そうとした相手に、オリビエはそれでもまだ会いたいと……共にいてほ

しいと言うのだ。

 こんな自分にオリビエの隣に立つ権利など、本当はないかもしれないのに。

「………………!」

 結局ミュラーはオリビエの方を振り返ることも返事を返すこともなく、逃げるよう

にオリビエの屋敷を後にした。


 今夜は冷える。吐き出す息は白い。

 けれどミュラーの体は燃えるように熱い。緊張が未だに冷めず、大きく息をして

なんとか己を落ち着かせようとした。

 頬を刺す冷気に気付き、ふと夜空を見上げる。満天の星が瞬く中、今にも泣き

出してしまいそうなほどの月がぼんやりと輝いているのが見えた。

 それはまるで、涙を流すことを許されぬ自分の代わりに泣いてくれているように

見えて。


 きっと明日になっても、オリビエは何事もなかったかのようにいつもと変わらぬ笑

みでミュラーを出迎えてくれるだろう。

 ……そう。オリビエにとって今日は何もなかった日。

 ただ一人の従者が主を気遣って屋敷を訪れ、床で寝ていた主人をベッドに運ん

でやった。ただそれだけなのだ。


 だがミュラーにとっては違う。

 ミュラーはオリビエの剣になると誓った。

 彼の身を守る盾ではなく、彼の進む道を切り拓くための剣になろうと。


 しかし剣はありとあらゆるものを斬ることができる。

 たとえそれがその剣を振るう者の命であったとしても。

 ……たとえそれが、己が守るべきと決めた者の命であったとしても。


 先ほど自分が、オリビエを手にかけようとしたように。


「………………!」

 ミュラーは歯を食いしばり、拳を握り締めながら強く目を瞑る。

 そうしないと己の不甲斐なさに今にも泣き出してしまいそうだった。




 今日はミュラーがオリビエを殺そうとした日。

 その事実は決して消えることはないし、忘れることができない。

 ……いや、決して忘れてはいけない。




 オリビエが、自分を必要だと言ってくれる限りは。







 オリビエの首を絞めた感触が、まざまざと蘇っている間は。























去年の3月に出した帝国コンビアンソロの原稿です。
碧をプレイして「おい!エレボニアで内乱起こっちゃってるよなんかこのネタがシャレになってないんじゃないか\(^0^)/」という状態に勝手に陥っております。
いや大丈夫ですオリビエはだってミュラーがいるから(白目

2012.2.18 UP

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