++ 愛の温度〜novel ver〜 ++





 あの日のことは今でもよく覚えている。

 それはミュラーがボクの専属の従者になると決まって、まだ間もなかったとある

日のこと。

 ボクにとっては一生忘れることのできない日になったのだけれど、恐らくミュラー

はあの日のことなどとっくに忘れてしまっているだろう。

 別にミュラーが薄情だとかそういうわけではない。どちらかと言えば、こんな何て

ことのない日のことをいちいち覚えているボクの方が異常なのだろうから。



 ……でも、ボクにはどうしてもあの日のことを忘れることができないんだ。



 それまでずっと、『あれは一体どんなものなのだろう』と思っていた。



 街角で見かける親子や、広場を駆け抜ける子供達。仲睦まじい恋人達に小説

の中の登場人物達も、みんな『それ』をしていたから。



 ごく普通に生きてきた人なら誰もが一度は経験のあることらしい。けれど、周囲

に近しい間柄の人間のいないボクには縁のないものだったし、これから先もずっ

と関わることはないのだろうと思っていた。




 ……それなのに、その日は本当に唐突に訪れた。




 当時のボクは必要な時以外は屋敷の外に出ることを禁止されていた。

 庶出の皇子の存在はまだ世間に公にされていなかったため、帝都の隅っこに屋

敷を一つだけ与えられてそこに隔離されていたのだ。

 専属の従者がいれば時々なら外出することも許されたのだろうけど、生憎ミュ

ラーに出会うまでのボクにはそんな大層な付き人はいなかったし、物心がつく前

からずっとここで生きてきたので、特に外に出たいとも思わなかった。

 それなのに空がとてもよく晴れたある日に、ミュラーが突然こんなことを言い出し

たんだ。

『叔父上から許可は得た。今から一緒に帝都まで行くぞ』、と。

 正直、何を余計なことを。と思った。

 当時のボクは屋敷に篭りきりだったからそれを見かねての提案だったのだろう

けど、ボクにとってはそんな心配は無用だったのだ。

 しかもまだ出会ったばかりのミュラーに馴染めて……いや、ミュラーを信用して

いなかったボクは、返事もせずに面倒くさそうにミュラーを睨みつけることしかしな

かった。

 自分でも本当に可愛げのない子供だったと思う。

 けれど庶子だからと邪険に扱われて牢獄のような館に閉じ込められ、人々の記

憶からも消し去られようとしている小さな少年の存在を、やたらと正義感の強かっ

たミュラーは放っておくことができなかったのだろう。

 ボクはミュラーを無視し、本でも読もうかなと目を逸らす。しかしミュラーはそれを

許さずボクに向かって左手を差し出した。

『ほらオリビエ、行くぞ』

 ぶっきらぼうに差し出されたミュラーの左手にボクは目をまん丸くさせてしまう。

 恐らくミュラーは『自分の方が年上だから』だとか『勝手にあちこちを駆け回って

迷子になられても困るから』だとか考えて、これが一番手っ取り早い方法なのだと

思って手を繋ごうとしただけなのだろう。


 ……けれど、当時のボクにはその手の意味することがわからなかったんだ。


 きっとミュラーは思いもしなかっただろう。

 今まで生きてきて、一度も誰とも手を繋いだことのない人間がこの世にいるだな

んて。


 呆気に取られてしまって反応することができなかったボクに、ミュラーは苛立った

ように『早くしろ』と促す。

 きっとボクが手を繋ぐのを嫌がっていると思ったのだろう。なおも動くことができ

ないボクに、ミュラーは半ば無理やり下ろされたままのボクの手を掴んだ。

 途端にボクの手に広がるミュラーの手のひらの暖かさ。同時に心の中にもむず

痒い、けれどじんわりとした何かが染み渡る。



 ……『手を繋ぐ』ということは一体どんなものだろう、とずっと思っていた。



 ミュラーは今でも知らないはずだ。

 あの日が、ボクが生まれて始めて誰かと手を繋いだ瞬間だったということは。

 ずっと夢に見ていた光景はあまりにもあっさりと、しかも何の感動の欠片もなく叶

えられてしまったのだけれど……


「………………」

 無意識のうちに繋がれた手を凝視する。

 ボクの小さな手が、ボクより少し大きな手に掴まれている。

 ぼうっとしながら顔を上げると、怪訝そうに眉を顰めさせるミュラーと目が合う。

 そこでやっとボクは、これが夢にまで見ていた『誰かと手を繋いでいる』ことなの

だと気づき、一瞬にして顔を真っ赤にさせてしまう。

 するとミュラーはますます不思議そうに首を傾げさせたのだけれど、そんなミュ

ラーを見てボクは思わず笑ってしまっていた。

 それが、ボクが初めてミュラーに笑顔を見せた瞬間。

 ミュラーは驚いたような顔をしていたけれど、ボクは構わず握られた手をほんの

少しだけ握り返してみた。

 暖かくて、とても力強く思えたミュラーの手の平。

 そのぬくもりを感じた瞬間が、ボクがミュラーのことを少しだけ信じてみようと

思った瞬間だった。



 ミュラーからすればそれはただの使命感だったのだろうけど、それでもボクは嬉しかったんだ。







 本当は手を繋いでいる人たちをずっと羨ましく思っていたから。







 こんなボクに手を差し伸べてくれたのは、ミュラーが始めてだったから。






















アンソロ用のSSとして書きはじめてたこのSS。「短いから漫画でまとめれるよなぁ…でも私はマンガできないしなぁ…」と思いつつ書いていたのですが、ふとしたところwで瑞乃はるひ様に漫画にしていただけることに!!
はるひさん、本当にありがとうございましたーーー!!!!!

2012.1.22 UP

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