++ 甘い誘惑 ++





 ガチャリと、部屋のドアが開かれる音で目が覚めた。

「………………」

 眠気のせいでまだ重い頭を持ち上げる気にもなれず、俺は更にベッドの中に潜

り込む。

 誰かが部屋の中に上がってきた。きっとお袋だ。お袋は朝が弱い俺のために、

もうけっこうな年だと言うのに毎朝俺を起こしにやってくる。

 微かに床が軋んで誰かが歩いているのがわかる。その足音は俺の眠るベッド

の横を素通りすると窓を開けた。……珍しい。いつもなら真っ先に俺を叩き起こす

のに。

 朝の清々しい空気が部屋の中を満たしてゆく。このまま二度寝してしまおうかと

も思ったが、頬を撫でる心地よい風がそんな気を失せさせていった。

 その時、誰かがすぐ横に立つ気配がした。お袋だ。

 たまには叩かれる前に起きてやるか……。そう思って、体を起こそうとする。け

ど、

「おはようございます、リノンさん」

 頭上から聞こえてきた声、そして布団の上から優しく添えられた手に、一瞬目を

見開く。

「朝ですよ。朝食の用意ももうすぐできますからそろそろ起きてください」

 お袋のしわがれた声とは全く違う柔らかな声音に2、3度瞬きをする。

 聞いたことのない……いや、つい最近どこかで聞いたような声。けれどまだ眠く

て頭がはっきりとしない。

 いつもなら布団の上からばしばし叩かれるのに、その手は俺の体を優しく揺り動

かすだけ。

「リノンさん。起きてください」

 その時、ふわりといい香りが鼻腔をくすぐった。

 どこか甘い、花のような匂い。

 この香りを俺は知っている。そう。これは『彼女』がいつも好んでつけているコロ

ンの香りで…………

「!!」

「きゃっ!」

 そこで俺の目が一気に覚めた。

 がばりと体を起こすと、俺の体を揺すっていた『彼女』も唐突のことに一歩下がっ

てしまう。

 茶色の瞳に深い緑色をした瞳。ピンクのワンピースにフリルのついた真っ白なエ

プロン。

 そこにいたのはお袋ではなく、つい1ヶ月ほど前から突然お袋が連れてきて俺の

家に居候をはじめた女性……キディさんだった。

 大きな目を更に大きく見開かせ、事態を飲み込めない俺を前に、それでもいつ

もの笑みを見せる。

「おはようございます。リノンさん」

「お、おはよう……」

 俺はまだ呆気に取られてしまっていたが、キディさんは俺が寝ぼけているだけだ

と判断したのかニコリと微笑むだけ。

「すぐ朝食を用意しますから、着替えたら下りてきてくださいね」

 可愛い女性の笑顔で朝を迎えられるだなんて、普通の男からすれば夢のような

光景だろう。

 でも、俺は違う。

 目の前で微笑むキディさんを思わず凝視してしまう。その視線にキディさんの笑

顔がわずかに曇り、不思議そうに小首を傾げさせる

「……リノンさん? どうかしましたか?」

「な、な、な、なんでキディさんが!?」

 思わず素っ頓狂な声をあげてしまった俺に、今度はキディさんが目を真ん丸くさ

せる番だ。

 けれどすぐにキディさんは俺の言いたいことを察したのか、「あぁ」と呟いて両手

をぽんと叩く。

「勝手にお部屋に入ってすみません。けれど起きていただかないと、朝食が冷め

てしまいますし、お店の準備にも間に合いませんから……」

「そ、そうじゃなくて!! どうしてキディさんが起こしにくるんですか!?」

「あら? 聞いていませんか? ブルームさんが最近朝が辛いと言っておられたの

で、これからしばらくは私が代わりに朝食を作ることになったのです。ついでです

から、リノンさんを起こす役割も引き受けたのですけど……ご迷惑でしたか?」

 そんな話聞いてない。どうせうっかり者のお袋のことだから話すのを忘れてし

まっていたのだろう。

 こ、こ、こ、こんな大事なことを言い忘れるだなんて、お袋のヤツ……!

 いきなり突きつけられた事実に俺は口をあんぐりとさせてしまうが、キディさんは

気にした様子もなく微笑む。

「今朝はクロワッサンとオムレツと野菜スープなんですけど……リノンさんが食べ

られないもの、ありますか?」

「あ……いや、そ、それはないけど」

「よかった。今後の参考にしたいので、苦手なものとかがあったら遠慮なく言ってく

ださいね」

 そして止めの花の咲くような満面の笑顔。

 無邪気な笑顔を前に、いろいろな意味で俺はくらりと目眩を覚えてしまう。

 キディさんは「それじゃあ」とだけ言い残すと、まだベッドの上から動けないでいる

俺の前から去っていってしまう。

 後に残されたのは、彼女の笑顔がまぶたに焼き付いて離れなくてもがき苦しむ

一人のみっともない男の姿だけ。

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!」

 なんと言ったらいいのかわからなくて思わずベッドの上に突っ伏してしまう。

 これから毎朝キディさんが俺を起こしにやってくる。それは一体なんて罰ゲーム

なんだ?

 キディさんのことが嫌いなわけではない。彼女は可愛いし、仕事も責任を持って

しっかりとやってくれてるし、このロレントにもすっかり馴染んじゃってるし何よりお

袋が気に入っている女性だ。俺だって悪い印象は持ってない。

 けど、俺は一人っ子で育てられてきたんだ。今まで身近な異性と言ったらお袋だ

け。それで20年以上を過ごしてきた。

 それなのに、いきなりこんな綺麗な女性を連れてこられて、それだけでもまだ頭

がついていけてないのに……こ、これから毎朝あのキディさんの笑顔に起こされ

る……!?

 しかもキディさんは、お袋が俺の『嫁候補』として連れてきた女性だ。お袋は否定

しているけどそうに決まってる。ダメだダメだダメだ! あの笑顔に騙されてはい

けない!!

 もそもそと着替えながら俺はなんとか理性を保とうとする。

 ……けれどその時、階下から焼きたてのクロワッサンのいい香りが漂ってきた。

「……………………」

 腹は減っては戦はできぬ。とはよく言ったものだ。

 とりあえず俺は着替えを済ませると朝食を済ませることにした。お袋とキディさん

が何を企んでいるのかはわからないけど、食べ物には罪はないからな。うん。

 俺は大きく頷くと、今にもお腹が鳴り出してしまいそうなのを押さえながらリビン

グに降り立った。



































 ロレントを南から入ってすぐのところに俺の店、『リノン総合商店』がある。

 食料や薬、雑誌にストレガー社の靴まで置いてあるといういわゆる「なんでも屋」

だ。ロレントでは唯一の雑貨店のため、いつもなら絶えず客が訪れてくる。

「……………………」

 ……それなのに、今日に限って朝から客がほとんど訪れない。

 クルーセちゃんが母親に頼まれて卵とミルクを、そして発着場のアランがリベー

ル通信の最新号を買いに来ただけだ。

 いつもなら客の対応や店の掃除、商品の在庫管理などをしているキディさんだ

が、それも早々に終えて時間が余ってしまったため、お袋と一緒に家の奥に引き

こもってしまった。

 ……きっと今、お袋と何かよからぬ計画を練っているのだろう。も、もしかして教

会に結婚式の予約とかをしてるんじゃないだろうな……!?

 奥の方から何やら楽しげな声が聞こえてくる。それが俺の中の不安を一層大き

なものにした。

 誰もいないと余計なことばかり考えてしまって俺は頭を抱え込んでしまいそうに

なる。誰でもいいから早く来てくれー!!!

 ……けれどその時、救いの手が差し伸べられようとしていた。沈黙を守っていた

ドアが、大きく開け放たれたのだ。

「こんにちはー! リノンさん、元気?」

「こんにちは」

「あ……エステル! ヨシュア!!」

 店の中に入ってきたのは、ロレントの外れに住んでいるエステルとヨシュアだっ

た。俺は歓喜のあまり思わず立ち上がってしまう。

「わっ! ……び、びっくりした〜。突然どうしたのよ」

 唐突なことに、エステルもヨシュアも面食らったように俺の顔を見る。

 それも当然だろう。きっと今、俺はまるで空の女神に祈っているかのような必死

な形相をしているだろうから。

「ど、どうかなさったんですか?」

 普段はポーカーフェイスのヨシュアも困惑した表情を見せている。

 俺はちらりと奥に続く扉を見て、お袋やキディさんが来る気配がないことを察す

るとエステルとヨシュアを手招きした。2人は首を傾げさせながら俺の方に近づい

てくる。

「……本当にどうしたのリノンさん。何か変よ? 私達、父さんに頼まれてリベール

通信の最新号を買いにきただけなんだけど……」

「そんなの後で何冊でもあげるから! ……そんなことより、2人とも、今は正遊撃

士として働いてるんだよね?」

「ええ。そうですけど?」

「それならさ、ちょっと依頼があるんだけど」

「依頼? リノンさんから?」

 エステルとヨシュアは同時に目を真ん丸くさせる。互いにちらりと視線を交し合う

と、ヨシュアは少々真剣な表情を俺に向けた。

「……どんな依頼なんですか?」

「いや……それがね……」

 呟きながら、俺はカウンターに肘をついて口元に手をやった。エステルとヨシュア

も同じように少し屈みこむ。

「……今、俺の家に居候がいるのは知ってるよね?」

「居候? ……えっと、キディさんのこと?」

「確かグランセルから来たアルバイトの方ですよね」

 2人の言葉に俺は大きく頷く。

 そう。元々キディさんはグランセルの百貨店で売り子をしていた。自分の店を持

ちたいという夢からグランセルを出てボースに向かおうとしていたのだが、途中で

あのロレント一帯を包み込んだ霧騒ぎに巻き込まれて足止めをされ、いつの間に

かしばらくロレントに住まうことになったのだ。

 その明るく人見知りをしない性格から、彼女はこの1ヶ月ですっかりロレントの街

に溶け込んでしまっていた。

 再び扉のほうを見る。……やはりお袋やキディさんが来る気配はない。

 それでも用心に越したことはない。俺は唇を引き結び、更に声を潜めさせる。

「……実は、君たちにそのキディさんを監視しててほしいんだ」

「……………………え?」

 一瞬の間があった。

 エステルは屈みこんだ姿勢のまま目を真ん丸くさせて、ヨシュアは呆気に取られ

たような顔をした。

「あ、あの……監視、ですか……?」

 聞き間違いか? と言いたそうに、ヨシュアはどこか引きつったような笑みを見

せる。でも俺は真剣そのものだ。

「そう! 君たちにキディさんを見張っててほしいんだ! きっとあの人は良からぬ

事を企んでいる…………!!!!」

 思わず握り締めた拳に力が入る。今にもカウンターを叩きつけてしまいそうなほ

どわなわなと震えていた。

「君たちも、俺のお袋が嫁探しの旅に出てたのは知ってるだろ!?」

「そう言えば……確かにリベールのあちこちで見かけたわね」

「そ、そうなの?」

「うん。でも結局見つからなかったって言ってたけど?」

 言って、エステルは呑気に小首を傾げさせる。

 あぁ!! 今はその何も知らない間の抜けた顔が憎たらしい!!

「そんなの嘘に決まってるじゃないか! それなら今俺の家に居候をしているのは

一体誰なのさ!!」

 ついに声を荒げてしまうが、すぐにハッとして声を潜めさせた。

 いけないいけない。この計画をお袋達に知られたらお終いだ。

「ボクはまだ結婚する気なんてないんだよ……。もしお袋とキディさんが何を企ん

でいるのかを調査してほしいんだ!!」

 小声で、でも叫ぶようにしながら俺はエステルとヨシュアを見る。

 2人は困りきった風に顔を合わせている。

「う〜ん……。私には、あの人がそんなことを考えてるような人には見えないけど

なぁ……ヨシュアはどう?」

「リノンさんには悪いけど……ボクも同感かな? 何度か会ったことはあるけど、

ただ普通にここの仕事を楽しんでいるようにしか見えなかったし」

 それなのになんと、薄情な2人は付き合いの長い俺の言うことなどを信じようと

せず、出会って間もないキディさんの肩を持ったのだ。

「そんなことないよ! ちゃんと調べてよ! あの2人は、あわよくば既成事実を作

り上げようとしているに違いないんだから!」

「……ヨシュア。『キセイジジツ』って何?」

「あ……いや、えっと、その……そ、そんなことより……」

 頭にハテナマークを浮かべるエステルに、ヨシュアは苦笑いを浮かべると気を取

り直すように咳払いを一つした。

「……申し訳ありませんが、依頼と言われましても、こういうプライベートなことに関

してはよほどの違法性が見受けられない限り受けることができないんですよ」

「え?」

「彼女にもプライバシーがありますから。ボクもキディさんのことは知っていますけ

ど……彼女がリノンさんの言っているような方には見えません」

「そ、そんな……!!」

 頼みの綱が一気にぷつりと切られてしまって、俺はそのまま奈落の底に突き落

とされたような錯覚を覚える。ついに俺は、カウンターに突っ伏してしまった。

「エステルとヨシュアの裏切り者ー! 何かあれば恨んでやるからなー! 」

「そんな子供みたいな拗ね方しないでよ」

「すみません、リノンさん」

 2人は口々に勝手なことを言っているが、もう俺の耳には何も届いていない。

 ……こうなったら仕方がない。遊撃士が信用できないとなれば、もうあとは俺の

手でどうにかするしか……!!!

 胸に新たな決意を秘めて拳を握り締めた時、ふと背後から扉が開かれる音がし

た。

「リノンさん。お茶をお淹れしたのですが…………あら?」

 扉の向こうから現れたのはキディさんだった。俺が振り向くのと同時ににこやか

な笑顔が向けられ、奥からふわんと甘い匂いが漂う。

「エステルさんとヨシュアさんじゃないですか。いらっしゃいませ」

「キディさん。こんにちは」

「お邪魔しています」

 エステルとヨシュアはさっきまで話などなかったかのようにいつも通りの態度でキ

ディさんに接している。キディさんも俺達の様子に気付いた気配はない。

「ちょうどよかったです。今、ブルームさんに教えてもらってチェリーパイを焼いたと

ころなんですよ。よかったらご一緒にいかがですか?」

 奥から漂う甘い匂い。

 そうだ。これはお袋が昔よく作ってくれていたチェリーパイの匂いだ。

 キディさんの言葉に、途端にエステルはパッと笑顔になる。

「え!? いいの!?」

「はい。たくさん焼いて困ってたところなんです。はじめてなので、味の方はちょっと

自信がないんですけど……」

 キディさんはどこか遠慮気味に言うが、エステルは小さな鼻をひくつかせる。

「そんなことないわよ。きっとすごく美味しいわ。だってこんなにいい匂いなんだも

ん。……ねぇねぇヨシュア。せっかくだからご馳走になっちゃおうよ」

 エステルは満面の笑顔をヨシュアに向け、彼の服の袖を引っ張る。ヨシュアは

困ったような、でも嬉しそうな笑顔を浮かべ、ただ小さく頷いた。

「やった! じゃあキディさん。ご馳走になります♪」

「はい。エステルさんとヨシュアさんの分の紅茶も用意するので座って待っててくだ

さいませんか?」

「何かお手伝いできることがあれば言ってください」

「ありがとうございます。でも、もうあとはお茶を淹れてパイを切り分けるだけです

ので。お気持ちだけで十分です」

 そんな会話を交わしながら、3人は楽しそうに部屋の奥に行ってしまう。

 俺は口をぽかんと開けてそんな3人を眺めることしかできない。

 畜生畜生畜生!! チェリーパイなんかに釣られやがってー!!! エステル

もヨシュアも、ついさっきまで俺が依頼をしていたことなんてすっかり忘れてしまっ

ているに決まってるんだー!! あいつらもお袋の差し金だったんだー!!!

 どこにも味方がおらず、一人残されてさめざめと泣き出してしまいそうになる俺

だったが……

「……リノンさん?」

 部屋の奥に戻ったと思っていたキディさんが、ぴょこりと顔を出す。

「リノンさんも、少し休憩にいたしませんか? ブルームさんから、リノンさんはチェ

リーパイが大好きだとお聞きしたので、私がんばって焼いたんです。紅茶も、以前

勤めていた百貨店から取り寄せたものなんです。きっとリノンさんも気に入ってい

ただけると思います」

 ふわりと漂う懐かしいチェリーパイの甘い匂い。そして、花の咲くような極上の笑

顔…………

 こんな笑顔を向けられて、誘いを断れる男がいたらお目にかかってみたいよ。

 それにお袋とキディさんが何を企んでるのかはわからないけど……腹が減って

は戦はできないって言うし、チェリーパイにも罪はないよな。うん。

「……わかった。すぐ行くよ」

 項垂れそうになった頭を上げ、俺は笑みを浮かべた。

「よかった。いっぱい食べてくださいね」

 するとキディさんはまるで子供のように嬉しそうに笑う。

 その笑顔に、俺はまたくらりと目眩を覚えた。







 チェリーパイと同じくらい、とても甘い甘い誘惑。







 あぁ……俺、これからどうなるのかなぁ……




































時間軸としては、SCのED後エステルとヨシュアが旅立つ前。という感じでしょうか?
「空の軌跡」はゲームが進むごとに街の人たちのセリフが全て変わり、
しかもそこにちょっとしたストーリーとかがあったりするのもハマった理由の1つでした。

てことで、いつか書いてみたいな〜。と思っていたそんな人たちのお話。
第1弾は1番好きなリノンさん&キディさんカップルで♪
もし7でリノンさんとキディさんが出てくるとしたら、すでに2人の間には子供がいそうな気がする(笑

2007.10.21 UP

戻る

inserted by FC2 system